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門崎砲台は明治32年に完成した、旧日本陸軍が作った鳴門要塞の一施設です。口径24cmカノン砲2門と9cmカノン砲2門の大砲4門を設置し、敵艦隊が鳴門海峡を通過するのを防ぐ役割を担っていました。令和5年に道の駅うずしおのリニューアルに伴い発掘調査を行った結果、建物の下から、口径24cmカノン砲を設置していたドーム状の施設が出てきました。穹窖(きゅうこう)砲台と呼ばれるこのドーム状の施設は、明治時代では現存する類例が見当たらない、極めてめずらしい構造の砲台です。
詳しくは知りたい方は下記の情報をご覧ください。
(1)門崎砲台解説パンフレット パンフレット [PDFファイル/2.42MB]
(2)門崎砲台の詳細な発掘調査報告書
『南あわじ市埋蔵文化財調査報告書24:門崎砲台跡』<外部リンク>
(リンク先:奈良文化財研究所)
(3)門崎砲台跡の現地看板について
位置図
1.宝塚予科練少年兵の墓地
宝塚海軍航空隊は、1945年3月に編成されました。しかし、当時の日本は物資不足に陥っていたため、訓練に使用する飛行機はなく、航空隊の候補生である少年兵たちは、阿那賀に砲台を建設するため住吉丸に乗船しました。鳴門海峡に差し掛かったところで、米軍の機銃掃射を受け、住吉丸は沈没しました。乗船者110名のうち、士官および予科練の少年兵81名が犠牲となりました。阿那賀の鎧塚に墓標が建てられています。
2.若人の広場
戦時中に学徒動員されたことにより戦没した若者を追悼することを目的として1967年に建設されました。設計は丹下健三氏
詳しくは こちら <南あわじ市HP>
3.陸軍由良飛行場(通称:〇〇 マルマル )
陸軍由良飛行場は機密保持のため通称は「〇〇」(読み方マルマル)と呼ばれ、榎列地区と松帆地区にまたがり、1944年に工事が始まりました。年内に一部完成し、訓練用の飛行場として運用しはじめたが終戦間際だったため物資不足からほとんど運用できず、戦後は地元に返還されました。施設は撤去され、農地となり、外周の水路が当時の範囲を物語っています。滑走路に用いたコンクリートは水路や擁壁の基礎として再利用されており、飛行場であったことの痕跡が残っています。